2018-05-09 第196回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第7号
私は、米銀に勤めている頃、ベルリン、東ベルリンと西ベルリンの間の壁が崩壊した直後に東ベルリンの高級ホテルに泊まりましたけれども、そのときに感じたこと、スリーコースのディナーが四時間掛かって、我々はウエートレスに文句を言えばにらまれると。彼女たちは、別に働いても働かなくても同じ給料をもらうということで、全く働くインセンティブを持っていなかった。
私は、米銀に勤めている頃、ベルリン、東ベルリンと西ベルリンの間の壁が崩壊した直後に東ベルリンの高級ホテルに泊まりましたけれども、そのときに感じたこと、スリーコースのディナーが四時間掛かって、我々はウエートレスに文句を言えばにらまれると。彼女たちは、別に働いても働かなくても同じ給料をもらうということで、全く働くインセンティブを持っていなかった。
自分自身がその二年前まで三年半ほどドイツで暮らしておりまして、当時、西ドイツ、東ドイツがある中で、時々車で東ドイツの中を走りながら西ベルリンまで行き、そしてチェックポイント・チャーリーから東ベルリンの中に入ったりしていったり、あるいはライプチヒのメッセ、ホテルがフルブックだと民間の普通のアパートメントに泊まりながら、向こうのドイツ人の方とお話しすると、大島さんと違って私たちは旅行する自由がない、そういうことを
この決定に至りますさまざまな過程につきましては、ケネディ大統領の弟、ロバート・ケネディ氏が「サーティーンデイズ」という小説の中で細かく書いているわけでありますが、さまざまな選択肢の中でとられたこの海上封鎖、実は、西ベルリンに対する封鎖、これに飛び火することを考えまして、ブロッケードということではなくて、実際にはクアランティーン、隔離、こういう言葉を使ったわけでありますが、この海上封鎖、具体的な行動であると
西ドイツとしては、ベルリンの位置づけをぜひ西ベルリンの一角ということに位置づけたかったけれども、占領軍はこれを認めなかったというようなことで、ドイツの国民の意図が違うところにあったというふうな話もあったわけですが、現在の連邦制度は特にアメリカが強く推し進めたものであって、これは非常に定着しておるということで、いろいろお話を伺いましても、この連邦基本法が占領時に押しつけられてつくられたものだから改正しないといかぬというふうな
ドイツの場合は七万人いるわけですけれども、結局、歴史的にベルリン封鎖を救ったのはアメリカであり、たまたま、ショルツ委員長、私も西ベルリン人として感謝している、ドイツ国民も一般に米軍を歓迎している、駐留経費については派兵する側が負担するのが普通であると。だから、ドイツの場合は負担していないということであります。
似たような例が実はベルリンにもございまして、まだドイツが統一されていないとき、西ベルリンは何をやったかといいますと、ここに世界最大の国際会議場を建設いたしました。そして、ここでいろいろな国際会議、これは東の国からも西の国からも人々が集まっていって、常にそこでは国際会議が開かれていたわけです。
それから、私は、かつてベルリンの壁が破れましたときに、その直後に東ドイツに入った経験がありますが、あのときに、東ドイツのホテルのテレビはすべて西ベルリンの放送が全部入っている。もうどんなに当局者がこちらは天国、向こうは地獄と言ってみても、テレビはそれを全く逆な形で伝えていた。私はその事実を見まして、あの壁はテレビ電波が向こうから破ったんだなというイメージを受けたような次第でございます。
ドイツの場合は百年もつようないい住宅をつくっているんだぞと言ったので、私は、それは西ベルリンの問題であって、東ベルリンはどうだと巻き返したのです、ちょっとこれはまぜ返しなんですけれども。しかしやはり、長もちする、防災性能の高い、そういう住宅をどういうふうにして庶民の町の中に入れていくかというときに、ある程度の補助を私はやっていいんじゃないかと思います。
私の調べました範囲では、世界年鑑八九年版より計算しますと、一九八七年にヨーロッパにおける主要国の議員数は、例えば西ドイツ、西ベルリンを入れますと、五百十八議席であります。イタリアは六百三十議席です、これは下院ですが。イギリスは六百五十議席、フランスは五百七十七議席。こういう点を見ましても、人口は別にして、総定数は現在の日本の五百十二よりはずっと多いわけですね。
しかし、ヨーロッパでいえば、西ドイツも、西ドイツ時代ですが、西ベルリンを入れるならば日本よりは多い五百十八の定員です。イタリアは六百三十です。そしてイギリスは六百五十、フランスは五百七十七、全部多いでしょう。 それから、一議員当たりの人口割りでいけば、日本は、この間の速報値で計算すると二十四万一千四百二十八人、毎日変わっていくでしょうけれども、そういう数字が出ます、五百十二でですよ。
旧西ベルリン市の備蓄食糧、医薬品五億八千万マルク、約五百二十億円、これを輸送を開始しました。ドイツ統一に伴うソ連軍撤退支援に百五十億マルク、約一兆三千四百億円の援助をする。ECでは、ただいま申しましたように十億ドル、約一千三百億円の緊急食糧援助を固めた。フランスでは五十億フラン、約一千三百億円の金融協定を締結した。
東ドイツの経済担当大臣に西ベルリンの経済担当者がいきなり就任をしたりするような、予想を超えるような思い切ったスピードで今進んでいるわけでありまして、やがて東ドイツを加えたECに東ヨーロッパ圏も加わるのではないだろうか。
もっとも、私の友人のドイツの連銀の首脳の一人は、これまでも西ベルリンとかあるいは国境地帯にかなりの財政支出を行っているので、東ドイツに対する財政の支援でふえる部分はそれほど多くはないはずだと。
○公述人(北野弘久君) 七分しかありませんので、まず大急ぎで一番最後の問題、西ベルリンのかつて日本大使館のありました建物が改築されまして、目下、日独センターというふうになっておりますが、そこで東西の学者が集まりまして土地問題のシンポジウムをやったのであります。
なぜ私がそういうことを申し上げるかといいますと、私は、今度の通貨統合を初めとした東西両ドイツの統一に向けての動きの中で、これがどう既に変化をしたのかあるいはこれから変化するのかを知りたいと考えておりますけれども、非常に厳しい対立関係の続いておりました当時の西ドイツには、ベルリン振興法というものによって西ベルリンに対する長期の信用供与に対しての租税特別措置でありますとか、あるいは東ドイツ国境沿いに一定
アムステルダムは九五%、西ベルリンは九〇%、ストックホルムは七〇%などなどであります。これは今までの歴史が違うということがありますけれども、格段に広い公有地を持っているために、公共事業あるいは住宅政策を進める場合に極めて進めやすいということが言えるわけなんですね。
ブリュッセルの欧州共同体(EC)本部、西ベルリン、それにローマのバチカン市国も訪問する。」そしてその次に、「英国、西独の日程調整がついていないが、予定国に変更はない」、こういうふうに出ているのですが、これはうそでしょうか。
ちょっと古い話ですけれども、一九六六年だったと思いますが、私も東ヨーロッパに参りまして、あの東ベルリンの壁のそばの哨所の二階から西ベルリンを見まして、いわゆるベルリンの壁と言われるものを見て、その後、ポーランド、チェコその他のところにも行ってまいりました。 八一年でしたか、ポーランドの連帯のワレサ議長が来日をいたしました。私は彼と二日間ほど長崎の地でいろいろ話をしたのです。
ということで、「定住のための出国は西ドイツ、および西ベルリンとのどの国境通過検問所でも可能である。」ということを発表しております。これによりまして、先生おっしゃいましたように、確かにこれは劇的な、歴史的な決定であると受けとめられておりますし、アメリカ側においても、ベルリンの壁は事実上撤去されたというような感想も述べられております。
西ベルリンに行きますと、ルフトハンザは西ベルリンに入れなくて米英仏の飛行機だけが入ることに対して西ドイツの人は明らかに不満を隠さない。心理的なことを含めて、こういう状況をもう取り払うべき時期に来ているんじゃないかなという気がするんですね。
最後に西ドイツですけれども、これは私の経験からのあれですが、西ドイツでもいまだに西ベルリンに行くのにルフトハンザは飛んでいないわけですね。イギリス、フランス、アメリカの三国の飛行機しか飛んでいない。これは西ドイツに行くと、必ず一般の市民の中で、戦争終わっていないという発言がありますね。
今度の法案では外部通勤制度というのを打ち出しておられますけれども、例えば西ドイツでは、そういった夫婦面会制度というものはないかわりに、外出であるとか外泊であるとか外部通勤制度というような制度を利用いたしまして、例えば西ベルリンのテーゲル刑務所というところでは、外部通勤の人たちは朝七時半なら七時半に所を出て、そしてバスに乗って、昼間働く工場に行く。